知能遅れだった私
実は私、「知能遅れ」の子供でした。ww 知能遅れっていうのは、昭和時代に一般的に使われていた「知的障害」の俗称のことです。
そして、私がその事実を知ったのは、高校に入学したときでした。合格を報告した私に、母が言いました。
「まさか、あんたが普通の公立高校に行けるとは…?!」
幼稚園の時に受けた知能テストで、私は一番数値が低かったのです。当時の園長先生には、「この子は普通の高校には行けないかもしれない」と言われていたと、ずっと後になって母から聞かされました。姉は反対に歴代で一番、知能数値が高かったそうです。
「一番頭のいい子と、一番頭の悪い子が同じ家庭にいる」と言われ、母はかなりショックを受けたそうです。ww
そんなこんなで「知能遅れ」だと思われていた私は、一度も「勉強しなさい」と言われたことがありませんでした。それは中学生になっても高校生になっても同じでした。代わりに言われ続けたのは、「女の子は愛想が大事」「笑顔を忘れないこと」「人に優しくしなさい」。そして「バスケを頑張りなさい(これは嫌だった。ww)」。
当然ながら勉強のやり方も分かりません。テスト前も特別な対策はせず、授業もたいして聞いていない。成績は中の中。そもそも当時の私には、「勉強はしなければならないもの」という認識すらなかったのです。
けれども「高校を決めないといけない段階」になって、ようやく「勉強しないといけないんだな」と分かり始めました。やったことといえば、学校から配られたドリルをひたすら解くこと。たしか友達に、「ねぇ、受験勉強って何すればいいの?」と聞いたような気もします。誰かに教わるわけでもなく、勉強法を知っているわけでもなく、分かるところを解いて、分からないところはなんとなく飛ばす。今思えば、本当に手探りでした。
それでも、なんとか近所の公立高校には合格できました。奇跡でもなんでもなく、ただ「やったから受かった」。それだけのことだったのです。
そしてそんな私が、今、子どもたちに勉強を教えています。当時の私からしたら、信じられないことかもしれません。おこがましくも他人に勉強を教えるなんて。ww
でも教える立場になって、改めて気づいたことがあります。勉強ができるかどうかに、「頭の良し悪し」はほとんど関係ないということです。
勉強ができないと思い込んでいる子どもたちは、「どうせ自分は頭が悪い」「やっても無駄」と思っている子がほとんどです。でも本当に頭が悪い子なんていません。できない理由の多くは、やり方が分からない、成功体験がない、少しつまずいただけで諦めてしまう。ただそれだけです。そして何より大きいのは、「自分ができないと思い込んでいる」こと。
確かに世の中には、一度読めば覚えられる天才もいます。でもそれはごくわずか。ほとんどの「できる子」は、見えないところで繰り返し努力しています。何度も同じ問題を解き、間違え、またやり直す。そうしているうちに、「できる子」になっていくのです。
人間はそんなに賢くありません。一回で覚えられないのが普通です。三回やって覚えられなければ、五回やればいい。それだけのことです。でも私たちは、少しできないだけで「自分はダメだ」と思い込んでしまう。あの幼稚園のときのテストのように、たった一回で「できない子」というレッテルを貼られてしまうこともある。
もしあのとき、「別に頭が悪いわけじゃない。ただやり方を知らないだけ。ただやっていないだけ」と言ってくれる大人がいたら、私はもっと早く自信を持てたかもしれません。
だから今、私はそれを子どもたちに伝えています。「頭が悪いんじゃない」「まだやり方を知らないだけ」「回数が足りないだけ」。できないことは恥ずかしいことじゃない。やらないまま諦めることのほうが、よっぽどもったいない。
私は頭が良い人間ではありません。努力家でもありません。真面目一筋で生きてきたわけでもありません。でも一つだけ伝えられることがあるとしたら、自分にレッテルを貼らなければ、能力はどんどん伸びていくということです。
「自分は人より劣っているのかもしれない」「自分は人より頭が悪いのかもしれない」。そんなことはありません。今までやってこなかっただけ。やり方が分からないだけ。ただ、それだけなのです。
もし今、「自分はできない」と思っている人がいたなら、声を大にして言いたい。それはあなたのただの思い込みです。あなたに足りないのは才能ではなく、ほんの少しの努力と自信だけ。
だから、自分にレッテルなんて貼らずに、小さな努力を積み重ねていきましょ。
完


